修正版を見てのメモ

別エディションは大好きなんだけど修正版と言われると癪に障るのはなんでだろ(挨拶


ということで週末には9th東京を見に行くのでその前に修正版観た時のメモ書き。

アイドルの理想像

アイドルとは、アイドルになりたいと思い続ける人である。
そういう映画だったんだろうなぁ。

「漫画家に必要なものって、何スか? 
 才能じゃなかったら、何なんスか?
 本物との差を決定的に分ける一線って、いったい何なんですか!?」
「人格だよ。」


自分が愛してやまぬ日本橋ヨヲコの「G戦場ヘヴンズドア」のワンシーン。


そういうことなのだと思う。
アイドルを諦められない。
実際にアイドルになれるかどうかではなく。
アイドルになるしかない生き方を選んでしまう人格。


「私は、天海春香だから。」


天海春香天海春香であるしかない。
だから少なくともあの時点では、天海春香はアイドルであるしかない。
天海春香がアイドルになりたいと思い続ける限り。永遠に、アイドルだ。


いつの日か、天海春香がアイドルよりもなりたいものができるのかもしれない。
そのとき初めて、天海春香はアイドルではなくなるのだろう。


その理屈でいうと、可奈がアイドルよりもなりたいものがあの時あったのなら。
春香は、なんとも言えぬ笑顔で立ち去ったのかもしれないなぁ。
まあそんな世界はなかったんだけど。


さて。
志保は、アイドルになりたいと思ったことはあるんだろうか。
北沢志保北沢志保であるしかない」と彼女に言ったら、どんな反応をするんだろう。
賛否はわからないけれど、ものすごく嫌そうな顔をするんじゃないか。
そんな気がする。


うん、結局。
春香と志保の会話ってまったく噛み合ってなかったのかもしれないなあ。



輝きの向こう側へ

実は自分、思いっきり勘違いをしてたんでなかろーか。


輝きの向こう側へは、「行く」もんだとばっかり思ってたんだけれど。
続く言葉は「手を伸ばす」であったり、「声をかける」だったんでなかろーか。


だって、アイドルが輝きの向こう側へ行ったって、やっぱりそこは輝いてんだよ。
アイドル自身が輝いてんだから。


あの映画でもうひとつ輝いていたもの。
サブタイトル案の一つでもあった「光の海」にも例えられた観客達のサイリウムの輝き。
うん、こっちには「向こう側」があるのかもしれない。
まだ彼女たちの声が届いてない人たちとかね。


そこはやっぱり手を伸ばしたり、声をかけるの方がしっくり来るもので。
景色としては、行くものではなく、広がっていくものなんだろう。




結局ずいぶん長いことあーだこーだと考えた続けてきたけれど。
実にオーソドックスというか当たり前の場所に着地してた気分。


とりあえずは、9th東京で彼女たちを観てきます。