愛ゆえに


…えーと、こういうときのお礼は「ごちそうさまでした」で間違ってなかったかな。


7月2日は千早記念日!と銘打って大勝負に出た時雨P
結論からいえば大勝利でいいと思う。


うん、大勝利。


…で、これからものすごく書きにくいことを書こうと思う。
まぁ腹くくって書いてみるか。


ニコマスにキャラ愛で名を馳せたPは多い。
個人的には視聴者へのアピール度で考えるとwhoP、最東みんくP、そして今回の時雨Pが3巨頭かなと。
このお三方、愛情表現の仕方に明確な差があると思う。

  • WhoP …美希の素晴らしさを視聴者にアピールする
  • みんくP…自分の律子愛を動画に残す
  • 時雨P …動画を通して脳内の千早にリアクションをもらう


むろん様々なアプローチを日々研鑽してる方々だから乱暴にまとめるのはひどいかもしれんが。
視聴者への距離感で分けるとやっぱりはっきりするんじゃないかなと。


こうして比べてみると、かつて時雨Pが「埋もれる獅子」*1と呼ばれたのも仕方なかったのだなあと妙に納得。

動画の対象に視聴者ではなく自分がきてしまうと、やはり当人にとっての暗黙の了解の部分というのは抜け落ちてしまう。
それを何とかして視聴者にも伝える動画に昇華する、というのが当時の時雨Pの模索していたテーマだったのではないだろうか。
そりゃ試行錯誤してるうちは埋もれても仕方がないだろう。
まぁそのころから好きで追っかけていたけど。


昔、時雨Pの千早作品を見ていて確かにもどかしさを感じることが多かった。
千早の眼に視聴者が映ってないことで、どうしても伝えるべきメッセージが間接的になって、ぼやけたように思えた。
他のキャラでは伸びるのに、千早だけなぜ伸びないのか。
そりゃそうだ。だって他のキャラはちゃんと視聴者に向けてプロデュースしていたのだから。
千早動画はまさしく「愛ゆえに」埋もれていたのだ。


そんな時雨Pの転機は、blogのSSに連動した一連の動画で訪れたのだと思う。


SSという一種の箱庭空間に時雨Pと千早の物語を隔離することは、視聴者がそこにいないことをスムーズに納得させる効果的な舞台装置となった。
物語の中に自分がいないと文句を言う人はいない。
むしろ物語であるとわかっているからこそ、没入し、共感し、思いを馳せることは視聴者にとって容易になったのではないだろうか。






SSのクライマックスに合わせて生み出されたこれらの作品は、いまでも自分のニコニコで出会った珠玉の名作として深い感動とともに覚えている。
翼を得た時雨Pは、自らの業から逃げることなく力強く羽ばたいた。




今回の千早記念動画でも、やっぱり千早の眼に視聴者は映っていないと思う。
でもこれまでの時雨Pの作品とともに過ごしてきた日々を思うと、「相変わらず千早に都合のいいリアクションさせてやがるよコノヤロウ!」と思いつつも、なぜかうれしくなる自分がいる。
一人の千早スキーとしては自分の思いを貫き通す時雨Pにやっかみもあるのだけれど。
自分の気持ちから逃げることなく、あがいて、埋もれて、尚あがいて.
今日という日の大勝負に挑んだ時雨Pへ、いつも千早とともに歩んできた時雨Pへ惜しみない称賛を贈りたい。

*1:ご本人はこの呼ばれ方を好んでないと聞いた覚えがあります。ゴメンナサイ。