考察と感想、作品と作者

最近他の方々のBlog廻ったり、えこPやDikePの新作を見ていて思ったことをつらつらと。


考察と感想って根っこは一緒だよなぁ。
考察は作品を意味付ける、定義することが主であり、感想は見たものがどう感じたかが主。
どちらも見て受ける印象から生まれるものであることに変わりはないわけで。
語る主体が違うだけではないかと思う。
感想という広い範囲の中に考察という一形態があるような感じだろうか。
考察の場合は自分の感想を一般化する、という変換作業が必要なのかもしれない。


こんなことを考えたのは「考察において作者の意図を読み解くことは必須だろうか?」という疑問が前提にあったからなんだけど。
ん〜、必ずしも必要ではないのかなと思う。
作者の意図を遡ることは魅力的な知的遊戯であり有力なアプローチだけれども、必須ではないのかなと。
作品と作者というのは切り離された存在なので。
それは霊感と呼ばれるものかもしれないし、偶然かも知れない。
もしくは視聴者側の人生経験、知識から賦与されるものかもしれない。
他の作品の影響かもしれないし、時代背景によるものかもしれない。
いずれにしても、作品が世に送り出された瞬間から、それは既に作者の手を離れた別のものになると思う。
作品って、作者の意図から生まれた、作者の意図に収まらない何かなんじゃないか。


まぁ作品を介しての作者と視聴者のコミュニケーションという面で考えるならば、作者の意図を作品から汲み取れたならもちろんうれしい。
ニコマスは特にそういう観点が強いかな。
でも、上で述べたような理由から、作者の意図が唯一の正解とも思えない。
人の数だけ感想があり、考察がある。異なる観点の数だけ、作品の持つ意味は生まれ続けるだろう。
逆に、作品から作者の意図しか感じられないとしたら、それは少し寂しいことなんじゃないだろうか。


だから、作品に対して異見はあって当然だし。
作者の意図が正確に読み取れなかったとしても、それは作品が独立した存在である以上ごく当たり前に起こることなのではないかと。


何が言いたいかというと、作品に対して「唯一」の解を求めるのは野暮なんじゃないかなぁってだけなのですが。