それぞれの幸福論

tybP


最初、「本当の幸せ」を探して「愛し愛されたい」と考えた。
最後、「君が其処に生きているという真実だけで幸福」になった。
結局、「愛されたい」はまだ叶わないままに。


自分はこの歌は、結局は幸福になれなかったのだろうと思っている。
幸福を心より願い、愛する者のすべてを守り、そして叶わなかった。
それでも、その今の自分を幸福だと敢えて断ずるのだと。
そんな仮初めの幸福を、それでも大事に抱えてる歌。


いつの間にこんな解釈になったのかは、自分でもわからないのだけれど。
控え目に言っても捻くれた解釈だと思う。少なくとも一般的ではないのだろう。


千早が歌う姿はとても温かいし、見ているだけで顔がほころんでくる。
そりゃそうだよな。
千早のいる世界にはちゃんとPがいて、本当の幸せはこれからも叶え続けるものなのだから。
なのに千早が立つ箱庭が仮初めの幸福の象徴に見えたのは、冒頭に挙げた先入観のせいなのだろう。


多分もうひとつ理由があって、自分はアイマスのPに自分を投影できないでいる。
アイマスの世界の自分は、Pと千早にとってはその他大勢に紛れてしまう誰か。
自分がどんなに千早を幸せにしたいと思っても、千早の眼には自分は映ってない。
思いっきり独りよがりの片想い状態なんだよなぁ。
だからこの作品の中にいる千早の笑顔に、自分とのギャップを感じるのだろう。


自分は仮初めの幸福こそ自分の幸福だと歌い続けるから。
アイマスニコマスのP達には、仮初めではない、本当の幸福を叶えてあげてほしいと願う。
幸福な二人を見守らせてほしいと願う。
無茶苦茶自分勝手だなぁとは思うのだけれども。