心意気と言われたら引くわけにはいかねぇなぁ

RidgerP


ニコマスブロガー界きっての大艦巨砲記事に定評のあるcha73さんにものの見事に引っ張り出されてみる。
つーことでことの経緯はこちらの記事を参照のこと。当然全文ね!


あー、ちなみに自分の書いた記事はこちらなんですが。
実はカズマさんのところにひっそりコメで書いた(9/29のとこ)のも自分だったりしてw
まーいいや、いけるとこまでキーボードぶっ叩くか!
以下格納。


1:一番好きなシーン
もうこっから頭抱えるしかないのである。
ぱっと思いつくだけで片手超えるんだからw
ウンウンうなって絞り出した結果はココ!


#5嵐ヶ丘 館の両端に雪歩と真が現れ、春香とあずさ、律子が前で踊るシーン。


自分はこの作品を徹底して「舞台」だと捉えていて。
その印象が完全に固まったのはこのシーンなのだ。
七夕革命以降、アイドル達はステージの重力から解き放たれた。
現実に存在しない空間で、縦横無尽に位置取り、そして踊るアイドル達。
そんな作品をいくつも観てきたけれど。
個人的にはやはりしっくり来ないところがあって。
自分でも何が物足りないのかわからなかった。


それに一発で答えを出された気がしたのがこのシーン。
しっかりと地を踏みしめつつ、空間を縦横奥行き全て使い切ってのこの一撃。
この力強さ。腹の底から吹き上がる快感は、未だに言葉にできない。
そしてその空間の隅々まで己が威を行き届かせた春香の強さも見事。
自分の考える生々しさというかリアリティというか。
その空間の広さ、張り詰めた空気、響く歌声に、非実写空間がある意味一番不得手にしているはずの肉感的な感触すら感じた。


初見でこれを観たときに、「この舞台が観たい」と思った。
CDなんざ当然買う。そうじゃなくて、ライブに行きたいと。
そしてこの舞台で聴かせて観させてくれと。
そこまで思わされたのは、初めてのことだった。


2:一番気に入ってるダンスの部分
ここを上げて良いのか非常に迷うのだが、好きなんだからしょうがないね。
というわけでダンスに関してはココ!


#7亡國覚醒カタルシス H.K.loid達


バックダンサーかいっ!と突っ込みが入りそうな気がするが、その通りである。
ちなみに2番目に好きなのは#6赤と黒 のH.K.loid達。
差はほとんど無い。楽曲の流れの分#7亡國覚醒カタルシス が勝っただけかもしれない。
完全にダンスに専念させた彼女達の舞いが、目に灼き付いて離れない。
他のアイドル達と異なり、視線を封じられ、歌うこともない彼女達。
彼女達の内側に触れることはできない。
こちらの視線が決して届くことのない断絶の先にある鋼鉄の意志。
制御されつくした存在であるからこそ、ダンスでしか彼女達の表現はうかがい知ることができない。
一点突破の強みとでも言うのだろうか。
何度観ても、ことダンスに関しては、彼女達のまるで断崖の果てに立つかのように思わせる舞いに目がいく。


3:よくわかんないけど気になる部分
わからないと言えばほとんどわからないんだがw
それでも上げるとしたらここかなぁ。


#2好きなのに! トリオの選択


亜美とやよいという選択がim@s All Starsにするための消去法なのか。
消去法かどうかに関わらず、何らかの見立てがあるのか。
全体の流れにおいて可愛い印象の楽曲を変化の一つとして盛り込むと考えたときに、
前半にこういう曲調を持ってくるのはわかる気がする。
ただ、そういうバランス感覚のみでこの曲が挿入されたものなのか。
それとも流れの中で「意味」を持つのか。
ゆきまこのストーリーが存在する気はするのだけれど。
亜美とやよいはどうなんだろう。
正直にわからないところである。


4:あふぅれる想い(あれば)
ん〜、カズマさんとこにぶん投げた内容がほとんどではあるのですが。
あれとはまた違う観点で書いてみようか。


本作は、アイドルを表現した作品ではなく。
アイドルで、表現した作品だと自分は理解している。
それはあずささんや伊織の架空MAシリーズと同じ流れだろうと。


つまり、この作品は春香さんの内面に潜る作品ではなく。
春香さんのパフォーマンスを堪能する作品に思えるのだ。


昔、阿修羅姫やカタルシスにてニコマスの通念上与えられたのは黒春香という概念であった。
それをパフォーマンスとする解釈ももちろんあったのだけれど。
その後の色々な流れもあって一個の人格として黒春香は成立してしまった印象がある。
この作品はその先入観から、解き放たれたものなのではないだろうか。


かつての阿修羅姫やカタルシスには、春香がそれらの楽曲の概念に取り込まれ、同質化している印象があった。
阿修羅姫=春香、カタルシス=春香であり、それらは不可分であるという。
それが今回の表現では、確かに両方共に春香の血肉となっている印象はあるのだけれど。
同質化したのではなく。春香が意のままに、伸び伸びと楽曲を御して見える。
かつては取り込まれていたものを、今は自らの手足として動かせるようになったというか。


春香がアイドルとして万能の器であることは多分あまり異論はないと思う。
その器が、かつてはその中を満たすものによって如何様にもその在り方を変えた。
それは表現者としては素晴らしい能力かもしれない。
実際役者の中には「憑く」タイプの名優も多い。
ただ、器がその威力を最大限に発揮するのは。
振り回された結果として在るのではなく。
器自らの意思で、自らを満たすものを決めた時なのではないだろうか。


本作の春香のパフォーマンスに、そんな意思を感じるのである。
我がある、と言ってもいいかもしれない。


それがRidgerPの意図したものかはわからない。
ただ、思えば自分はあずささんの時も、伊織の時も。
彼女達自身の我によるパフォーマンスに圧倒されてきたのだと思う。
表現者としてその場所、その空間に叩きつけられたものの煌めきに、惚れたのだ。
そしてますます、彼女達が好きになっていくのだ。